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日志


2007/1/29

思案

「俺は既に元の世界と離れて、歴史を遡り戦国時代にたどり着いた。原因は分からないが、今の状況から推測すると、しばらくこの「沢彦」になってもしょうがないこと。まさか、自分がこの「岐阜」と運命が交わりあうとは夢見でも及ばない」、ここで、やや慨嘆しそうになったが、「まぁ、俺の手でこの歴史を作ってやる」と、密かに嬉しい気持ちになった。

 「だが、歴史に逆らって自分で新しい名前を作るといえ、どういう名前を作るか」と、急に不安がたまらずに湧き上がった。「そして、信長って、本当に歴史通りの人物なのか。そうであれば、その気紛れな性格に気をつけないと、命の保障もない」、微かに、手から汗が滲み出した。

 「ここに至ったら、もう仕方がない。歴史通りにするしかないな」と、決心を固めた。

「スー」と深く一息を吸い込み、ゆっくり「フー」と息を吐き出すと、爽やかな快感が全身を走った。ここにはガソリンも、何かの化学物質の匂いもない澄み切った空気だ。現代人がずっと追求しているものは自分の手でなくしたのではないかと惜しく思わずにいられなかった。

 気分が晴れたので、頭を上げると、いつの間にか、青空が赤く霞んでいる。夕焼け雲が空を飾り付けている。夕日は世を惜しむように、弱まっている光で万物に長い痕を残している。もう少し時間が経つと、「パン」と夕日が地平線の下に飛びこんで、無尽な暗闇は世を包んでくる。

 夜幕が来たのを知っていたかのように、庭のあちらこちらから、鈴虫たちが一斉に鳴き始め、リズムよく合奏してくれた。電気がないと知ったように、蛍たちも星に負けないくらい、一生懸命この世を照らそうとした。庭に出て、東に目を向けると、賑わっている町の様子が見える。が、更なる東にある「火の蛇」が天までくねり上がっている。月光を借りてよくみると、「火の蛇」は実際には大勢の人が大松を掲げているのだ。よく見えないが、なにか「山」の形が見えそうに見えない。その壮観ざまを見て「そ、それは・・・」
2007/1/25

沢彦和尚

沢彦和尚

 

 「法師、法師、起きてください。起きてください」

 「・・・」

 「起きてください」とても澄んでいる声だ。

 「・・・うぬ」僕は目を覚ました。急かす声を立てたのは10歳くらいの小僧だ。「なんだ」と口にした瞬間、ふっと「何で自分のことを『法師』と呼ぶのか」と思った。

 「法師さま、信長さまからお遣いがいらっしゃいました。ご面会を求められております」

 「えっ?ノブナガさまって、織田信長のことか」と驚いたあまり、僕は慌てて目を四周に回すと、なんと風景が一変した。確かに、僕は天守閣の四階にいたはずだが、今は庭園の風景になっていて、そして、目の前の小僧もなんと麻布のような服を着ていて、坊主頭だ。

 「今は何年。ここはどこ」僕は叫ぶように聞いた。

 「法師さま、大丈夫ですか」小僧は僕の声に驚かされたようだ。「現在は永禄10年でございまして、こちらは井ノ口町の郊外でございますが・・・」

 「井ノ口町って、稲葉(いなば)山城の下町じゃないか。後は岐阜と改名された。永禄10年は1567年じゃないか。この年は稲葉山城が「岐阜」と改名した年じゃないか」頭の中に、次から次へのほどに想いが巡った。つまり、僕は今439年前にいるわけだ。これ、これは夢ではないか。どうやってここまでに飛んできたのか。弘平たちはどこにいるのか。が、それよりも「俺は誰」だ。

 「法師さま、大丈夫ですか。あなた様は『沢彦法師』ではございませんか」、小僧は笑うように言った。

 「えっ、沢彦法師って」、僕は本当に驚いた。僕は「周文天」じゃなくなった!?「何で」と、心の奥から疑問が湧かずにいられない。

 「法師さま、来客はお待ちかねでございます」、小僧が少しイライラしながら、言った。

 「一体何の用件であったかのう」、僕は不意に聞いた。あまり奇妙な光景に、僕は一旦全ての疑問を秘め、「沢彦和尚」になりきろうといたずらのように思った。

 「お忘れになられましたか。先日、信長さまからの勅命がございまして、この稲葉山城に新たに名前を作れと」

 「はっ、思い出した。思い出したぞ」、僕は微笑んで言ったが、内心は妙に感動が躍起した。「まさか、あの歴史の出来事が間もなく、俺の身に起こるというわけか」寧ろ、密かに喜んだ。

 「通しなさい」

 「はい、かしこまりました」、小僧が去った。

 「これから先はどうなるのだろう。ま、分からない。でも、既に戦国時代に遡った以上、一歩一歩見ながら進むしかない」と、決めた僕は手を挙げて、痛めた頭を撫でようとした。すると、なんと頭がつるつるだった。自身を見ると、もちろん、着ているのも和尚の服装だった。

 間もなく、使者が小僧の案内でやって来た。

 「お屋形さまの命を奉じて、稲葉山城の新たな名前のため、参りました。明日辰の刻(午前八時くらい)に、登城せよというお言葉でございまする」、使者も年が若く、頭はサムライ風な髷が折り曲がっている。多分信長身近な小姓だろう。

 「ご苦労様、ご復命お願いしたく、わしは明日必ず登城をいたし、名前を献上いたすとお伝えなされ」、僕は必死に読んだ小説の対話の模様と大河ドラマの台詞を思い出し、真似した。

 「はっ、承知いたしました。では、ごめん」、小姓が一礼をし、庭の外までに送られた。

 一人きりになった僕は手枕を顎に当てて、じっくりと考え始めた。

2007/1/21

化転(下天)

観覧車でユラユラと金華山の頂上に近づいてゆく。添乗員はいい声で岐阜城の話を紹介してくれる。車内は20人くらいが入っている。アナウンスを聞いている人が殆どおらず、皆勝手にしゃべりあっている。弘平ももちろんだ。僕らに向けかって、疲れも感じないように、「教えて」くれる。「あのさ」とか、「ほら」とか、「知ってる」とか。が、僕は嫌な気分はしない。このとき、別に彼の話を聞いているのではなく、岐阜城に関する様々な人物像が浮かんできて、自分の思い込みにはまっている。

 「人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり」

頭の中に妙にこの言葉が浮かんできた。一見すると、この敦盛は岐阜城と関係ないのではないか。桶狭間に出陣する前に、信長が舞ったこの敦盛は既に織田信長の代名詞となった。が、司馬遼太郎氏の名著「国盗り物語」では信長より、斉藤道三が先にこの敦盛を自分の得意にしたらしい。なるほど、舅への偲びか、その知遇への感銘か、その奥深さに惹かれたか、信長もこの敦盛が好きになっただろう。

 「ご乗車ありがとうございます・・・」、微かな震動を伴い、ようやく着いた。
 僕らは案内に従い、展望台、七間土塀(櫓)、天守閣を歩いた。天守閣とはいえ、復元されたものだと知り、僕は別に興味があまりなかった。天守閣に入ると、内部の構造は既に現代風で、そして、資料館となっている。観客は昔の面影を展示品から思い馳せるのにほかならない。ただ、四階から長良川に体を俯き、北アルプスを眺め、更に、境が絶えなく伸びていく濃尾平原を見下ろすと確かに「天下」という言葉が浮かんでくる。

  「天下布武」

疲れを知らない脳細胞が大脳皮層の溝からこの単語を拾ってくれた。涼しい風に吹かれながら、風の音が何故か人の声となり、徐々に叫び声、金属が裂かれるような音も、鉄砲の音も、馬蹄の音も、飛び矢が行き来する音も聞こえるようになった。・・・
 「ホン、ロン・・・ザッ」急に雷がいきなり僕の耳際に響いた。僕はびっくりするほど体が飛び上がりそうになった。「雨か」と独り言をつぶやいた。
 「周君、降りましょうね」、真純が声をかけてくれた。「次に行きましょう」
 「了解、すぐ行くから」、僕は顔を中に向けて微笑んで答えた。僕はまた空に振り向いて、「あっ、いつの間に、曇ってきたのかな」、空に、いく重もの雲が日差しを完全に遮った。風も強くなり、雲同士を急かし、押しつぶすように吹いている。「傘は持ってるから、大丈夫や」と、思いながら、体を回し、「降りるぞ」
 「サッ」、一瞬、僕の目の前の世界が白くなった。何の音も聞こえずに、全身が痺れて、何の感覚もなくなり、唯一働いているのは大脳だ。が、「自分」は自分から飛び出そうとしている。躯体が無力に落ちていく。「自分」は声も出せないし、思考もできない。ただ何かに吸い込まれるのを感じている。
 「バダ―」と躯体が転んだ。それで、「自分」は意識がないままどこかに吸い込まれていった・・・
 「ホン、ローン」と雷が低い声で吼えた・・・
2007/1/18

奇 想 怪 談 ―― 岐 阜 城

由 縁

 「わぁっ!風に吹かれていいな」、弘平が満足げに開いた窓に頬を寄せながら、言った。
 「いやだ、何であんなガソリン臭いの空気がいいの。私の髪が乱れちゃうよ。エアコンを付けて、窓を閉めようよ。」里美の声だ。
 「そうだよ。弘平、窓を閉めて、一日でも風に飽きませんか」、真純が附和した。
 「うぬ、女同士には負けんぞ。ほら、男よ、声を出せよ。俺はな、故郷の空気を吸いたいのさ」、弘平が大真面目な顔で僕に向かって言った。「周君、岐阜の空気は東京のとは違うだろう。ほらほら、ちゃんと吸いなさいよ。せっかくここまでに来たんだから、岐阜の全てを楽しまないと、今回の旅には損しちゃうぞ」
 「はい、はい、ありがとうさん」、僕は微笑んだ。「康作君、どう思う。閉めるか閉めないか」、僕は車の一番後ろから運転手席に難問を投げ込んだ。
 「まぁ、弘平さ、ジェントルマンになれよ。レディの前では、やはり男が譲るべきじゃないか」、康作が穏やかな声で答えた。
 「やれやれ、閉めるよ。どうせ岐阜城に着いたら、また吸えるよ。閉めるぞ」、弘平が不満げに窓を閉めた。「早くエアコンを付けようよ。8月の岐阜はまだ暑いぞ。ほら、前方のパネルを見て、室外気温は36℃だぞ」、弘平が頭をやや低くし、路上の情報パネルを覗いた。
 「だって、エアコンを付けるから、窓を閉めてねと言ったじゃん。弘平はせっかちですね」、里美は皮肉を言った。「周君を倣ってみ、後に座っているのに、何の文句も出さないよ」
 「・・・周君と俺を比べるなよ」、弘平が少し顔を赤くした。「周君、暑いだろう」
 「はいはい、二人とも、黙りなさいね」、僕はしょうがなく、あの二人を静めようとした。が、心の中に、別のことを考えている。「岐阜城、あるいは『天下第一城』、どういうお城なんだろう」、「信長、いや、道三もこの城を、天下を取るための根拠地にした。一体何故だろう」と、僕はついつい思い込んだ。
 実は、今回の旅の目的地は岐阜ではなかった。本来、大学の夏休みに入って、どこかに遊びにいかないかと里美が最初に提案してくれて、真純と康作もそれに賛成し、最後弘平は上高地に行こうぜと提案した。すぐ皆は賛成した。たまたま、康作君は僕のチューターで、僕を誘った。僕も日本に来て以来、関東地方以外のところにまだ足を伸ばしたことがない。せっかく、中部地方に行くチャンスだから、僕もすぐそれに乗った。ただ、上高地に行くだけでは、物足りない感じがしする。僕はお城が好きなので、上高地に近い「岐阜城」にも行きたいと提案した。弘平は大喜びで、出身地だから、案内すると言って、皆も異論がなかった。
 「周君は確かに戦国史が詳しいよな」、弘平が挑発的に僕に問いかけた。
 「またかよ」と、僕は苦笑し、すぐ「いかにも」と返した。
 「じゃ、俺らが行った上高地は当時の領主は誰」
 「上高地は信濃と飛騨の境に跨いでいるから、一時武田信玄の領地だったよね。後はまた変わったけどな」
 「さすがだね。じゃ、日本の旧い地名に詳しそうだから、競ってみないか。一人3つずつを挙げて、重複か分からないかで勝負する。いいか」
 「喜んで」
 「じゃ行くよ。越前、中、後」(注:福井、富山、新潟)、「備前、中、後」(注:岡山県東部、岡山県西部、広島県東部)、「下総、上総、安房」(注:関東北部、関東南部、千葉県南部)、「豊後、肥前、肥後」(注:大分、長崎、熊本)、「上野、下野、常陸」(注:群馬、栃木、茨城)、「薩摩、大隈、日向」(注:鹿児島県西部、鹿児島県東部、宮崎)・・・
 「ほらほら、つまらないゲームをやめてよ。こっちは全然分からないから」、里美は口を出した。「ちょっとこちらも分かるものにしてくれませんか」
 「勉強せざるものは知らざるべし」、弘平がからかった。「そうだ。周君、岐阜のもともとの名前を知っているか」
 「美濃だろう。それくらいは知っているよ」、僕は微かに自慢げに言った。
 「ならば、なぜ岐阜と名づけたのを知っているか」
 「それは中国の岐山の『岐』を取ったわけでしょう。織田信長は『天下布武』のために、中国の周文王を倣って、岐山から興るとしたかったからでしょう」
 「その通りだ。ただ、知っているかどうかは知らないけれど、先俺らが言った旧国名のなかに、『岐阜』は唯一に中国の歴史を由縁で名づけられた地名だよ」
 「なるほど、さすがに気づかなかった。何故だろう」と、僕は囁いた。「戦国時代は実力主義至上で、確かに名前も実力の反映となっていた。北条家といえば、小田原城の堅壁が天下を轟く。本願寺といえば、難攻不落の石山本願寺城(注:大阪城の前身)がある。織田信長はいかに派手な性格といえ、これらの名城を比べれば、稲葉山は桁違うほど無名だ。ただ自分の気性に従い、『岐阜』を選んだか。しかも、中国からの由縁を入れた。きっとなんらかの原因があるだろう。そして、この名前を献上したものは一体何故この由縁を取ったか」、疑問はたまらずに浮かんできた。
 「そうだろう、岐阜は特別だもん・・・」
 弘平が後で何を言ったかはもう覚えていない。僕の心はすっかり「岐阜」の由縁にはまり込んでしまった。

小説連載の開始

小説連載の開始
 二ヶ月前に、ある留学生新人文学賞に投稿した。見事に落ちた。当該作は小説にしては僕の処女作とはいえる。一応、歴史関連なので、古文体も使ってみた。失敗作とはいえ、皆さんに一回読んでもらう価値があると思うので、敢て、ブログに連載させていただきたい。

 小説の内容は主人公である「周君」は岐阜城で落雷に遭い、電気のせいか、時間トンネルに入り、戦国時代に遡った。岐阜城の命名をめぐって、「周君」はどうやって、歴史に巻き込まれたかを書いた。フィクション小説の感覚で書いたので、面白い半分でご覧になっていただければと思う。

 小説は長くないので、10000字くらいの短篇だから、2~3回で終わると思うけど^^;

  修正を手伝った倉持先生、小林先生、鱒沢さんにもう一度お礼を申し上げます。

 それでは楽しみにできれば嬉しい^¥^
2007/1/6

忏悔……为了一只饿死的鸡;_;

      我要忏悔,为了一只死去了的鸡,一只饿死了的鸡……
 
      我姑姑一家出外旅游,去两个星期,我负责帮他们照料他们养的五只鸡。做的也就是喂菜和换水,原则上是每天都去。
 
      我这段时间在赶论文,所以我没有每天去,通常都是一天半,还有两天才去一次。结果……
 
      一只鸡抵受不了饥寒交迫,倒下了。
 
      我今天去喂食的时候才发现……
 
      愧疚,为什么我没有每天都来呢?我的错,因为我的一时懒惰,竟造成了一只小生命离别了这个世界。而且是那么的凄凉……
 
      罪孽,虽然没有直接夺取它的生命,但是我就是凶手……
 
      拿去已经冰凉的鸡脚,放进了塑料袋;从心有余悸,到隐隐作痛。
 
      看着其它鸡争抢饲料的狠劲,我知道我的罪过了……
 
      背着已经冰凉的鸡躯回到家里,放进垃圾袋……
 
      明天,我一定会去喂鸡的!!!!!!!!!!!!
2007/1/5

広州は中国大陸内では初めて一人当たりのGDPが1万ドルを超えた市となった!!!!!

広州は中国大陸内では初めて一人当たりのGDPが1万ドルを超えた市となった!!!!!

 広州市統計局の2006年の統計によると、2006年広州市GDPは6236億元(100円=6.5元)となり、現在の為替と戸籍人口で推算すると、年間1人当たりのGDPは1万ドルを超えた。現在広州市の総人口は994.3万人、戸籍人口は約700万人で残りは流動人口である。

 広州は北京、上海を先駆けて、中国大陸内の初めて先進国基準ラインを超えた都市となった。国連の基準としては、10000万ドルは途上国から先進国になる基準ラインとされている。比較のため、以下いくつかのデータを挙げてみる。

 一人当たりGDPは10000万ドルを超えて、日本は1984年、香港は1987年、シンガポール1989年、台湾1992年、韓国1995年である。

 2005年の中国大陸内の統計資料によると、一人当たりGDPでは広州は8500ドルで、同期の北京は5457㌦、上海は7600ドル、シンセンは7300ドルである。

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 以上は喜ばしいニュースというが、もう一つのデータを出したい。
 2005年世界銀行の統計によると、香港の一人当たりGDPは24581ドル、台湾は13926ドルで、中国大陸全体は1703ドルである。

 この雲泥の差の味わいは皆さんは自分で味わってください~~~~~

广州成为内地首个人均GDP超过一万美元的城市

广州成为内地首个人均GDP超过一万美元的城市
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http://news.tom.com  2007年01月04日 02时33分 东方网 
广州市2006年的地区生产总值将达到6236亿元,按照现行汇率和户籍人口计算,人均GDP将超过11000美元
按照世界银行的衡量标准,人均GDP超过1万美元是公认的从发展中状态进入发达状态的标线
广州市人均GDP预计在2006年超过1万美元,成为中国内地第一个跨入人均GDP过万美元的城市。
“从目前的情况来说,广州可以说是站在现代化的门槛上。”广州市社科院科研处处长彭澎对《第一财经日报》表示。
人均GDP将超过11000美元
 

2005年,广州市实现地区生产总值5451.23亿元。根据广州市统计局的预计,2006年广州市地区生产总值同比增长14.4%。按照这个速度,实际上广州市2006年的地区生产总值将达到6236亿元。
根据全国第五次人口普查的数据,广州市总人口994.3万人,户籍人口702.66万人。按照现行汇率和户籍人口计算,人均GDP将超过11000美元。
此前不久,广州市市长张广宁已经在公开场合表示,预计今年广州市地区生产总值将突破6000亿元,按户籍人口计算,人均GDP将超过10000美元。
普遍认为,人均GDP是比GDP更科学的衡量经济发展水平的指标。按照世界银行的衡量标准,人均GDP超过1万美元是公认的从发展中状态进入发达状态的标线。
日本人均GDP在1984年超过了1万美元,中国香港、新加坡、中国台湾地区和韩国的人均GDP分别是在1987年、1989年、1992年和1995年超过了1万美

日本人均GDP在1984年超过了1万美元,中国香港、新加坡、中国台湾地区和韩国的人均GDP分别是在1987年、1989年、1992年和1995年超过了1万美元。
国际货币基金组织今年公布的2005年世界各国和地区人均GDP排名中,45个国家和地区的人均GDP超过了10000美元,其中中国的香港、台湾分别以24581美元和13926美元排在第23和37位,中国内地以1703美元排名106位。
2005年,广州市人均GDP达到8500美元,恩格尔系数下降到0.383。这一年年底,广州有关部门就曾表示,“广州达到了国际公认的小康水平”。
也就在2005年,在全国大中城市中,广州人均GDP超过了北京、上海和深圳。这一年,京沪深的人均GDP分别为5457美元、7600和7300美元。
按照今年的统计数字,广州将成为中国内地第一个进入“发达状态”的城市。
2007/1/3

2006年小结&2007年展望

      新年的钟声敲过,2007年的小猪飘然而至……嗷,嗷……小猪舔舔嘴巴,顶着一个长鼻子,撑着两个鼻孔,眯着小眼向我们咧着嘴傻笑。
 
      2006年,我度过了25岁的生日,怎么说,人生如果有100年寿命的话,我已经活到了四分之一了,一天里面分为清晨,早晨,下午,晚上的话,我应该是旭日东升的时候了。
 
      说了一大堆废话,该总结总结了。毕竟过年对孩子来说是开心的事,因为可以大一岁了。但是对于大人来说,确实感伤的……我也不例外。特别是这一年我的家族里面发生了两件让我特别伤感的事。一个是年初的时候,我的叔公中风瘫了;另外一个是我的外婆因为肺炎引起的并发症而去世了……这两件不幸的事也却是打击了我。特别是我身在远方,总是不能及时尽孝,心里多多少少感到一丝迷惘和愁伤……
 
      但生老病死,人之常也;过去了,人还是得站起来的。不知道为什么,说这话总是感到有点伤感。可能自己还是性情中人吧。好了,伤感到此为止。也该说说我自己在过去一年都干过什么事了。
 
      这一年我可以说是大丰收,
      6月份,我获得了日本环境省举行的留学生征文比赛的“最优秀奖”,得到了当时环境大臣和中国环境局副局长的亲手颁奖。
      9月份,我经过笔试,面试的拼杀,终于得到了东京大学大学院新领域创成科学研究科的环境研究系的国际协力学的录取通知书了。
      12月份,我得到了另外一份征文比赛的优秀奖,下个月领奖。
      就看这些东西,好像这一年没白过了,但是我想说的是,我能得到这些奖一个是我运气好,另外一个不能不说我这四年的努力终于出了成果了,这些奖励对我来说,与其说是炫耀的资本,不如说是对我四年努力的肯定。
 
      四年级真的好空闲,我基本上都没有选课,学校是每天都去,不是打球就是跳舞,就像人家一二年级似的。搞得现在反而有点担忧下一年进大学院怎么办……
 
      来日本六年了,逢年过节都是一个人过,这一年受到人生第一份圣诞礼物,也算是给填补了自己的一处空白,呵呵呵呵,好好珍惜。
 
      2007年,我做了八菜一汤来迎贺新年,拿个兆头呗,难得开心。走过了人生的四分之一了,也是该为自己的将来做打算了。作为一个打入社会的人,也得为自己配备“附属装备了”,呵呵呵呵,看来第一步应该是……呵呵呵呵,卖个关子,yeah^-^
 
      进了大学院,就得熬两年了。还要搬家,父母来日,奖学金……哇,还有一大堆的事要干。而且是四月前得干完,嗯嗯嗯,忙……